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島津氏の歴史を紐解く!〜南九州を制した武家とその分家、激動の時代を追う?島津氏、南九州を統べる〜鎌倉時代から江戸時代までの歴史を凝縮

鎌倉時代から南九州を制した島津氏。蒙古襲来、内紛、分家との争いを経て、戦国時代には九州を席巻。薩摩藩として江戸時代を生き抜き、明治維新まで。数多の分家が複雑に絡み合う血脈、家紋「島津十文字」、その歴史は現代に息づく。激動の時代を駆け抜けた島津一族の興亡を紐解く。

島津氏の歴史を紐解く!〜南九州を制した武家とその分家、激動の時代を追う?島津氏、南九州を統べる〜鎌倉時代から江戸時代までの歴史を凝縮

📘 この記事で分かる事!

💡 鎌倉時代に始まり、守護大名として南九州を支配。元寇や内紛を乗り越え、勢力を拡大します。

💡 戦国時代には分家との争いを経て、島津貴久が台頭。薩摩・大隅を統一し、九州制覇を目指します。

💡 江戸時代には外様大名として存続。明治維新を迎え、現代までその歴史と文化が受け継がれています。

さて、本日は島津氏の歴史について深掘りします。

まずは、島津氏の歴史を大まかに掴んでいきましょう。

島津氏の起源と鎌倉・室町時代

島津氏はいつから南九州を支配していたのか?

鎌倉時代から

承知いたしました。

それでは、島津氏の起源と鎌倉・室町時代について、詳しく見ていきましょう。

初期の島津氏~鎌倉時代から室町時代まで

公開日:2024/05/29

初期の島津氏~鎌倉時代から室町時代まで

✅ 鎌倉時代から室町時代にかけて、島津氏は摂関家荘園の管理人から鎌倉幕府の守護職に任命され、薩摩国を中心に勢力を拡大しました。

✅ 元寇後、島津氏は後醍醐天皇側に立ち、鎌倉幕府から奪われた日向国と肥後国を取り戻しましたが、室町時代には内部対立が続き、日向国と肥後国を再び奪われてしまいました。

✅ 応仁の乱後、島津氏は京都から学者を招き、薩南学派を興す一方、内部対立が再燃し、日向国と肥後国を再び失いました。

さらに読む ⇒草の実堂色々なものを調べてみる雑学専門サイト出典/画像元: https://kusanomido.com/study/history/japan/bakumatu/20640/

島津氏の勢力拡大と、その後の内紛や他勢力との争いは、激動の時代を物語っていますね。

島津氏は、鎌倉時代から南九州を支配してきた家系です。

鎌倉幕府の御家人・島津忠久が薩摩、大隅、日向の守護職に任じられたことから始まりました

鎌倉時代には、蒙古襲来に備えて薩摩の地に住むようになり、室町時代には守護大名として領国統治に尽力しました。

しかし、内紛や周辺勢力との争いが続き、安定した統治は困難を極めました。

島津氏の歴史は、まさに波乱万丈ですね!鎌倉幕府の御家人から始まり、守護大名として南九州を支配するまでの道のりは、非常に興味深いです。

島津氏における分家・庶家の興隆と抗争

島津氏は、どのように分家・庶家を形成していったのか?

鎌倉時代から南北朝時代にかけて、宗家からの分家や庶家が生まれた。

はい、それではChapter-2へ。

この章では分家や庶家の興隆と抗争について解説します。

戦国時代の南九州、大混乱の世紀()奥州家と総州家、島津氏の分裂

公開日:2021/06/14

戦国時代の南九州、大混乱の世紀()奥州家と総州家、島津氏の分裂

✅ 南北朝争乱が14世紀末に終結した後も、島津氏は内部対立や家督争い、国人衆との争いなど、不安定な状況が続き、乱れに乱れた。

✅ 島津氏は鎌倉時代から薩摩国の守護を務めていたが、支配力は弱く、南北朝争乱では南朝と北朝に分かれて戦った。その後、足利氏の命により薩摩に帰国し、南九州に根を下ろしていく。

✅ 南北朝合一後、島津氏は幕府に従うようになり、領国支配の基盤を築いた。島津貞久の死後、薩摩国と大隅国を分割相続し、それぞれ「総州家」と「奥州家」が誕生した。総州家の島津師久は薩摩国で、奥州家の島津氏久は大隅国で領国化を進めた。

さらに読む ⇒ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。出典/画像元: https://rekishikomugae.net/entry/2021/06/14/153428

分家や庶家が数多く存在し、それぞれが宗家を支え、または対立する、複雑な関係性が面白いですね。

島津氏は、鎌倉時代から南北朝時代にかけて、多くの分家・庶家を形成しました。

これらは、宗家を支える存在となる一方、宗家に反旗を翻し混乱をもたらす場合もありました。

13世紀~14世紀に成立した庶家は、当初は島津姓を名乗り、後に地名を冠するようになりました。

鎌倉時代に成立した支族には、山田氏、阿蘇谷氏、給黎氏、町田氏、伊集院氏、伊作氏などが存在しました。

また、島津忠久が越前国守護に任じられた際に、次男の島津忠綱が守護代となり、越前家と呼ばれるようになりました。

越前家からは、知覧氏、宇宿氏といった庶家も出てきました。

南北朝時代には、島津忠宗の息子たちが活躍し、和泉氏、佐多氏、新納氏、樺山氏、北郷氏が誕生しました。

これらの5氏は、宗家の島津貞久と共に戦い、南九州における島津氏支配を確立する立役者となりました。

5代当主の島津貞久は、家督を分割して相続させ、三男の島津師久に薩摩国守護を、四男の島津氏久に大隅国守護を任じました。

これらはそれぞれ総州家、奥州家と呼ばれ、南北朝時代末期には協力して敵対勢力に対抗していましたが、共通の敵がいなくなると対立し、覇権を争うようになりました。

結果として、奥州家が主導権を握り、総州家は衰退し、最終的には滅亡しました。

8代当主の島津久豊の子から、薩州家、豊州家、羽洲家、伯州家、9代の島津忠国の子から相州家といった分家が出てきました

また、桂氏、迫水氏、喜入氏なども当初は島津姓を名乗っていました。

島津氏のような大きな家系は、たくさんの分家があって、それらが時には助け合い、時には争うというのは、まるで大河ドラマのようですね!しかし、歴史はドラマよりもずっと複雑で面白い。

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戦国時代の南九州!島津氏の激しい内紛と勢力拡大、そして天下統一への挑戦。薩摩藩として江戸時代を生き抜き、明治維新まで。