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島津家とは?薩摩藩から明治維新までを徹底解説!南九州を制した武家:島津氏の歴史

鎌倉時代から続く島津家。南九州を制し、戦国時代には九州統一も目前に。薩摩藩主として江戸時代を生き抜き、明治維新を牽引した。華族としての新たな道を歩み、皇室との縁も深い。本論文は、島津家を事例に、華族の意識形成、家政改革、歴史編纂を多角的に分析。明治時代の華族像を鮮やかに描き出す。

島津家とは?薩摩藩から明治維新までを徹底解説!南九州を制した武家:島津氏の歴史

📘 この記事で分かる事!

💡 島津氏は鎌倉時代から戦国時代、江戸時代を経て明治維新まで、日本の歴史に深く関わってきた家系です。

💡 薩摩藩主としての島津家は、独自の統治システムを築き、明治維新を牽引する原動力となりました。

💡 島津家は皇室との繋がりも深く、現在もその血筋は日本の文化に影響を与え続けています。

それでは、島津家の歴史を紐解きながら、彼らが日本の歴史に刻んだ足跡を詳しく見ていきましょう。

まずは、島津氏がどのようにして南九州を治めるようになったのか、その始まりから解説します。

島津氏の興隆と戦国時代

島津氏はどのようにして南九州の支配者になったのか?

鎌倉幕府の守護職就任から

1568年の秀吉軍と大友軍の合流は、九州の勢力図を大きく変える出来事でしたね。

九州の総力戦!戦国時代、豊臣秀吉による「惣無事政策」で追い詰められた島津氏の運命
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✅ 1568年、秀吉軍と大友軍の合流により、秀吉による九州攻めが始まりました。

✅ 秀吉軍は西国大名の総動員によって強大な兵力を誇り、1年間にわたる戦いの末、島津氏は降伏しました。

✅ 島津氏の敗北は、秀吉が関東以東の制圧へと進むための第一歩となりました。

さらに読む ⇒日本文化と今をつなぐウェブマガジン出典/画像元: https://mag.japaaan.com/archives/197667/2

島津氏が秀吉に降伏したことは、その後の日本の歴史を大きく左右する出来事だったんですね。

島津氏は、鎌倉幕府の御家人・島津忠久が薩摩、大隅、日向の守護職に任じられたことから、南九州一帯を治める家系として歴史を刻んできました。

鎌倉時代には、蒙古襲来への対応や後醍醐天皇の倒幕運動への参加など、時代を反映した活動を見せます。

室町時代には守護大名として領国統治に尽力しますが、家督争いや内紛などの混乱も経験します。

8代当主の久豊が家督を継承してから、勢力を拡大し地位を固め、守護大名としての基盤を築き上げました。

戦国時代には、島津忠良とその子・貴久が薩摩守護家を再興し、薩摩、大隅を統一

義久とその兄弟たちは、優れた武力と知略で領土を拡大し、最大時には九州の9割を勢力下に置く大大名となります。

豊臣秀吉の九州征伐に屈し、その後は徳川幕府のもとで薩摩藩を領する藩主となりました。

なるほど、秀吉の九州攻めから始まるんですね。島津氏の隆盛と衰退が、この時代から始まったというのも興味深いですね。

島津荘と鎌倉時代の島津氏

島津氏のルーツは?

源頼朝からの任命

島津忠久が島津荘の地頭職に任命されたことが、島津氏の始まりだったんですね。

鎌倉殿に仕えた島津忠久、薩摩島津氏のはじまり

公開日:2022/01/10

鎌倉殿に仕えた島津忠久、薩摩島津氏のはじまり

✅ 島津忠久は、源頼朝から薩摩・大隅・日向の広大な荘園「島津荘」の惣地頭職に任命され、島津氏を創始した人物です。

✅ 島津忠久は鎌倉幕府に仕え、頼朝の上洛にも同行するなど、重要な役割を果たしていました。

✅ 島津忠久の出自については、頼朝の落胤説など様々な説がありますが、比企氏との繋がりや、藤原摂関家との関係が深いことも示唆されています。

さらに読む ⇒ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。出典/画像元: https://rekishikomugae.net/entry/2022/01/10/092039

島津荘が島津氏の基盤となり、鎌倉時代を通じて勢力を拡大していく様子がよくわかりますね。

島津氏は、源頼朝によって薩摩・大隅・日向三国守護職および島津荘地頭職に任命され、島津を姓としました。

比企氏の乱で忠久は三国守護職・島津荘地頭職を没収されましたが、後に薩摩国守護職と島津荘薩摩方地頭職は返還されました。

その後、島津氏は二代忠時、三代久経、四代忠宗と続き、元寇や鎌倉幕府の動乱に巻き込まれながらも、南九州における勢力を拡大していきました。

島津は、平安時代後期に太宰府の役人平季基が関白藤原頼通に寄進した、日本最大の荘園です。

日向国諸県郡の島津の地(現在の宮崎県都城市郡元付近)を中心としたことからこの名前が付けられました。

初期には日向国のみでしたが、その後薩摩国・大隅国へと広がっていきました。

元暦2年(1185年)、源頼朝と近衛家から惟宗忠久が島津荘の下司職に任命され、後に地頭職に任命されました。

近衛家は島津荘の本家として支配しており、忠久は近衛家に仕えていたため、荘園の管理を任されたと考えられます。

建仁3年(1203年)の比企氏の乱で忠久は島津荘地頭職を没収されましたが、後に薩摩方のみ地頭職が返還されました。

大隅・日向の地頭職は鎌倉幕府滅亡まで北条氏一族が保有しました。

島津荘って、そんなにすごい土地だったんですね!源頼朝との関係も深いですし、歴史の教科書でよく出てくる理由がよくわかりましたわ!

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薩摩藩主・島津家の歴史を紐解く!戦国から明治維新、皇室との繋がりまで。華族としての歩み、家政改革、家史編纂を通し、日本の近代史を読み解く。