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日米交渉、開戦への道:歴史的対立と太平洋戦争勃発までの軌跡とは?真珠湾攻撃までの日米外交の裏側

1940年、日中戦争を巡り対立する日本とアメリカは、関係改善交渉を開始。しかし、日本の東南アジア進出とアメリカの対日制裁は深まる一方だった。経済制裁による窮地から、日本は東南アジアへの野心を強め、交渉は難航。南部仏印進駐が更なる制裁を招き、開戦への流れが加速。最後まで和平を模索するも、真珠湾攻撃で交渉は決裂。日米交渉の破綻は、太平洋戦争勃発へと繋がった。

📘 この記事で分かる事!

💡 日本とアメリカの関係悪化の原因となった、日本の中国侵略と東南アジア進出を解説。

💡 経済制裁の強化と、開戦へと向かう両国の緊張の高まりを追います。

💡 ハル・ノート提示から開戦決定までの、緊迫した外交の終焉を描きます。

今回の記事では、日米交渉の経緯、対立の原因、そして開戦に至るまでの過程を丁寧に見ていきます。

日米交渉の始まり:対立の構図と交渉への模索

日米開戦の背景は?対立の原因を簡潔に教えて!

日本の東南アジア進出と米国の経済制裁。

日米関係が悪化するきっかけとなった、日本の中国侵略とアメリカの自由貿易の維持を求める姿勢。

この章では、その対立の構図と交渉の始まりを解説します。

アメリカとの関係悪化と日米交渉・対米開戦についてわかりやすく【日本の歴史】

✅ 日米関係は、日本の中国侵略と東南アジアへの進出に対し、アメリカが自由貿易の維持を求めたことで悪化し、交渉が決裂した。

✅ 日本は日中戦争の解決と東南アジア進出による資源確保を目指したが、アメリカはこれを「東亜新秩序」の形成とみなし、認めなかった。

✅ 1941年12月8日、真珠湾攻撃により対米開戦となり、日米間の対立は武力衝突へと発展した。

さらに読む ⇒モチオカの社会科マガジンα|中高の社会科をマスターしよう!出典/画像元: https://social-studies-magazine.com/history-us-japan-negotiations

真珠湾攻撃に至るまでの、日米間の様々な思惑と思惑が交錯している様子がよく分かりますね。

それぞれの国の立場と思いがぶつかり合い、結果的に戦争へと繋がってしまったのは、非常に残念です。

1940年夏、アメリカ・カトリック外交官の提案をきっかけに、日本とアメリカは関係改善のための交渉を開始しました。

この動きは、日中戦争を巡る両国の対立、特に日本の中国支配への野心と、アメリカの東南アジア現状維持と中国の門戸開放という相反する思惑が背景にありました。

日本は、東南アジアへの進出を目指し、アメリカの対日経済制裁を招きました。

アメリカは、1939年の日米通商航海条約破棄、1940年の航空機用燃料や鉄屑の輸出禁止など、徐々に制裁を強化しました。

こうした中、近衛文麿内閣は、日米交渉による事態打開を図りました。

ええ、日米関係の歴史は、現代にも通じる教訓を含んでいますね。歴史的背景を理解することで、現代の国際関係における問題解決のヒントが得られるかもしれません。

決定的な対立:制裁の強化と開戦への傾斜

日米交渉停滞の原因は?開戦へと向かった日本の危機とは?

アメリカの制裁と石油輸入停止、東南アジアへの進駐。

日本の南部仏印進駐に対するアメリカの経済制裁強化が、日米関係を決定的に悪化させた出来事について解説します。

開戦へと向かう過程を詳しく見ていきましょう。

南部仏印進駐を簡単にわかりやすく解説【アメリカ激おこで石油輸出全面禁止へ】

公開日:2023/05/21

✅ 1941年7月に日本がフランス領インドシナ(現在のベトナム、カンボジア、ラオス)の南部に軍を進め駐屯させた「南部仏印進駐」は、日中戦争の打開策と資源確保を目的とした東南アジア進出の一環でした。

✅ 日本は、中国への支援ルート(援蒋ルート)を遮断し、東南アジアの資源確保を目指しましたが、東南アジアに植民地を持つアメリカはこれを阻止しようと経済制裁を実施。日本はこれに対抗し、更なる東南アジア進出を推し進めました。

✅ 南部仏印進駐は、アメリカの更なる経済制裁を招き、最終的には真珠湾攻撃へと繋がり、日米開戦のきっかけとなりました。この出来事は、日中戦争における援蒋ルートの存在と、ドイツのフランス降伏という背景の中で起きました。

さらに読む ⇒まなれきドットコム出典/画像元: https://manareki.com/invasion-of-southern-french-indochina

いやー、まさに歴史のターニングポイントって感じやね。

日本の東南アジア進出が、こんなにも大きな結果を招くとは。

アメリカの反応も強烈やったんやろな。

1941年に入ると、日米交渉は「日米諒解案」を基に本格化しましたが、様々な要因で停滞しました。

アメリカは対日包囲網を構築し、日本に対し旧秩序への回帰を強く要求しました。

日本国内ではアメリカの経済制裁への反発が強まり、特に石油の輸入停止は国家存亡の危機と認識され、東南アジアの資源地帯確保が急務となりました。

7月28日の南部仏印進駐は、アメリカによる資産凍結と石油輸出全面禁止という更なる制裁を招き、開戦論が台頭しました

あのー、その、経済制裁って、当時の日本にとっては、すごく大きな問題だったんですか?

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開戦回避へ最後の足掻きも虚しく…日米交渉決裂。真珠湾攻撃で太平洋戦争勃発。日本の運命を分けた交渉の顛末を紐解く。