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江戸時代の京都は、政治の中心から文化の中心へ?政治から文化へ、二条城と御所が語る京都の変貌とは!?

政治の中心は江戸に移ったが、文化の中心として輝き続けた江戸時代の京都! 天皇・公家、商人、そして将軍が織りなす歴史と文化を、御所、二条城、五街道、伝統工芸、そして事件を通して紐解く!

江戸時代の京都は、政治の中心から文化の中心へ?政治から文化へ、二条城と御所が語る京都の変貌とは!?

📘 この記事で分かる事!

💡 江戸時代の京都は、政治の中心から文化の中心へと変化しました。

💡 二条城と御所は、江戸時代の京都における政治と文化の象徴的な場所です。

💡 交通網の発展と商人たちの台頭によって、京都の経済と文化は大きく発展しました。

それでは、江戸時代の京都の変遷について詳しく見ていきましょう。

政治の中心から文化の中心へ

江戸時代、京都は政治の中心から文化の中心へ。どんな役割を担った?

天皇・公家の権威の中心

二条城は、将軍の威厳を感じさせる壮大な建築ですね。

二条城 ~世界遺産・徳川幕府の京都拠点~
二条城 ~世界遺産・徳川幕府の京都拠点~

✅ 二条城は、徳川幕府の初代将軍・徳川家康によって建てられた江戸幕府の京都拠点であり、「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されています。

✅ 二条城は、将軍の宿泊所としてだけでなく、京都の監視を行うための拠点としても機能していました。また、大政奉還が行われた場所としても歴史的に重要な場所です。

✅ 二条城の見どころは、狩野探幽一門の障壁画が飾られた二の丸御殿、小堀遠州が改修に関わった二の丸庭園、角倉了以の屋敷の一部を移築して造られた清流園などがあります。

さらに読む ⇒FunJapo|京都観光・グルメ・イベントなどのおすすめ情報出典/画像元: https://funjapo.com/sightseen/detail-64/

当時の京都の賑わいが目に浮かびます。

江戸時代、政治の中心は江戸に移りましたが、京都は天皇・公家の権威の中心として、文化的な役割を担い続けた。

中世の動乱で荒廃した京都御所は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康によって復旧され、周辺には公家町が形成された。

鎌倉時代末期にできた御所は、江戸時代を通じて徐々に拡大し、現在の京都御苑の大きさにまでなった。

御苑は、かつて公家の屋敷が並んでいた場所だが、現在は一部を除き公園として一般開放されている。

一方、武家の中心は二条城であった。

徳川家康によって築城され、将軍の上洛の際に使用された。

二条城は本丸と二の丸で構成され、本丸には天守があったが現在は焼失している。

二条城は、将軍が朝廷を強く監督下に置いた象徴的な場所でもあり、徳川家光は、二条城に上洛して天皇を招き入れた。

そうですね。二条城は、江戸幕府の京都における権威の象徴でした。

交通網の発展と京都の役割

江戸時代の京都は、政治の中心ではなくなったのに、なぜ重要だったのか?

文化の中心、交通の要衝

五街道は、江戸時代の経済を支えた重要な交通網だったんですね。

五街道」ぜんぶ言える? それぞれのルートと特徴、簡単な覚え方をチェック

公開日:2023/04/09

五街道」ぜんぶ言える? それぞれのルートと特徴、簡単な覚え方をチェック

✅ この記事は、江戸時代の五街道について解説しています。

✅ 五街道とは、江戸の日本橋を起点に延びる東海道、中山道、甲州街道、日光街道、奥州街道の5つの街道のことです。

✅ それぞれの街道のルート、特徴、歴史的な背景について詳しく説明されており、東海道の浮世絵や中山道における皇女和宮の輿入れなど、興味深いエピソードも紹介されています。

さらに読む ⇒HugKum(はぐくむ) | 小学館が運営する乳幼児~小学生ママ・パパのための育児情報メディア出典/画像元: https://hugkum.sho.jp/458414

なるほど、水運の発展も京都の経済発展に貢献したんですね。

江戸時代の交通網は、全国的な街道網の整備と水運の発達によって大きく発展した。

五街道と呼ばれる主要な街道は、幕府直轄で整備され、宿場町が形成された。

また、水運は大型船や高瀬舟などの小型船によって発展し、大阪は経済・商業の中心地として繁栄した。

淀川は京都と大阪を結び、物流を安定させるために高瀬川が建設された。

このように、江戸時代の京都は、政治の中心ではなくなったものの、天皇・公家を中心とした文化の中心として、また交通の要衝として、重要な役割を果たし続けた。

ええ、五街道は、江戸と全国を結ぶ重要な役割を果たしました。

文化と経済の融合

江戸時代の京都はどんな街だった?

文化の中心地

祇園祭は、今も昔も京都の夏の風物詩ですね。

江戸食文化紀行
江戸食文化紀行

✅ 祇園祭礼は、平安時代に疫病退散を祈願して始まった京都祇園社(八坂神社)の祭礼で、室町時代には山と鉾に分かれ、江戸時代には町人の力によって豪華さを増しました。

✅ 明治維新後、祭日は7月17日と24日に変更されましたが、祭礼の諸行事は現在も存続しています。

✅ 祇園祭は、当時の京の賑わいを見せるものであり、『東海道中膝栗毛』にも描写されているように、多くの観光客が訪れ、豆腐田楽や粽、丸山軽焼、大仏餅などの京名物が人気でした。

さらに読む ⇒歌舞伎座出典/画像元: https://www.kabuki-za.co.jp/syoku/2/no236.html

京都の伝統文化の素晴らしさを感じますね。

江戸時代の京都は、宮廷文化と商人階級の活気あるエネルギーが融合した、活気あふれる文化の中心地でした。

祇園祭や時代祭などの祭り、西陣織や京友禅などの伝統工芸が繁栄し、商人階級の台頭は経済と文化の発展を促しました。

江戸時代には、禁門の変や大塩平八郎の乱などの事件が発生しました。

また、天明の大火などの自然災害に見舞われることもありました。

後水尾天皇や桂昌院などの著名人がこの時代に活躍しました。

江戸時代における京都の文化的遺産は、現在でも街の景観、伝統工芸、祭りなどで見られます。

祇園祭は、京都の文化と経済が融合した象徴的な祭りですね。

商人たちの興亡と尾形光琳

京都の町人はどのように栄枯盛衰を繰り返したの?

大名貸しの失敗で

尾形光琳は、才能豊かな画家だったんですね。

尾形光琳、没後300年 天才絵師の私生活は放蕩三昧だった?(画像集)

公開日:2016/07/20

尾形光琳、没後300年 天才絵師の私生活は放蕩三昧だった?(画像集)

✅ 尾形光琳は、1658年に京都の呉服商の次男として生まれ、幼い頃から芸術の才を発揮していました。

✅ 30歳で父を亡くし莫大な遺産を相続しましたが、放蕩三昧な暮らしを送ってしまい数年で使い果たしてしまいます。その後、絵の修行に専念し、独学で「琳派」と呼ばれる独自の画風を確立しました。

✅ 代表作である「風神雷神図屏風」や「紅白梅図屏風」など、装飾性と独創性に富んだ作品を数多く残し、59歳でこの世を去りました。

さらに読む ⇒ハフポスト - 日本や世界のニュース、会話を生み出す国際メディア出典/画像元: https://www.huffingtonpost.jp/2016/07/20/ogata-kourin-300_n_11080754.html

光琳の生き様は、成功と失敗、そして芸術への情熱を感じますね。

江戸幕府は京都の大商人の経済力を抑制する政策を取り、中世以来の上層町衆の中には衰退する者も現れました。

その混乱に乗じて、近江や伊勢、美濃方面の商人たちが京都、特に上京に移住し、実権を握るようになりました。

彼らは商業圏を大坂や江戸にまで拡大し、上京は長者の町と呼ばれるほど繁栄しました。

呉服商では八文字屋善兵衛、伊勢屋市左衛門、後藤家などが、両替商では三木権太夫、日野屋甚太郎、大黒屋善四郎などが有名でした。

しかし、京都の町人は大名貸しの失敗から栄枯盛衰を繰り返しました

その一例が、画家・尾形光琳の生家である雁金屋です。

雁金屋は、近江の浅井長政の家来筋であった2代目・道柏が、長政の3人娘である淀君、京極高次夫人、徳川秀忠夫人などに引き立てられ高級呉服商になりました。

しかし、最大の顧客であった東福門院和子が死去したことで、大名貸しに手を出し、回収不能が重なり没落の道を辿ります。

光琳は、雁金屋の遺産で遊蕩生活を始めますが、浪費癖は止まらず、広大な屋敷も人手に渡ってしまいます。

その後、京都銀座方の役人・中村内蔵助のパトロンを得て、画家としての名声と富を得ます。

光琳は、琳派と呼ばれる独自の画風を確立した天才的な画家でした。

江戸時代の政治と社会

江戸時代、京都はどんな都市に発展した?

文化・商業都市

角倉了以は、京都の発展に大きく貢献した人物だったんですね。

戦国江戸期の豪商・角倉了以は゛徳゛の人だった? 京都の河川事業に私財を投下

公開日:2024/07/11

戦国江戸期の豪商・角倉了以は゛徳゛の人だった? 京都の河川事業に私財を投下

✅ 角倉了以は、朱印船貿易で莫大な利益を上げ、その財力で京都の河川事業に尽力した豪商です。

✅ 彼は大堰川や富士川の治水事業に成功し、京都の物流を活発化させました。

✅ また、方広寺大仏殿の再建にも取り組み、京都の街の発展に大きく貢献しました。

さらに読む ⇒ BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン)出典/画像元: https://bushoojapan.com/bushoo/tokugawa/2024/07/11/116706

江戸時代の京都は、角倉了以のような人物によって発展したんですね。

江戸時代は、1603年から1867年までの264年間、徳川将軍家による全国統治が続いた時代です。

長期安定政権により、国内は「天下泰平」と呼ばれる平和な状態が保たれました。

江戸幕府は、京都を直轄都市とし、二条城に京都所司代と町奉行を置きました。

徳川家康、徳川秀忠、徳川家光による3代の将軍は京都の社寺の復興に力を入れており、1611年には角倉了以によって鴨川の西側に高瀬川が開削され、大坂と京都を結ぶ重要な水路となりました。

江戸時代には、西陣織などの伝統産業が保護され、観光都市化が進み、観光産業が発展しました。

京都の人口は35万人に達し、上京12組、下京8組の町数で、当時の日本において第三の都市となりました。

江戸幕府の職には、京都の警備や朝廷・公家の監察などを担った京都所司代、幕末維新期に京都の治安維持や御所の警護などを担った京都守護職、御所の警護や伏見港の監視などを担った伏見奉行所などがありました。

京都守護職には会津藩藩主松平容保が就任し、金戒光明寺に本陣を置きました。

また、江戸時代には「藩」と呼ばれる領地を持つ大名が存在していました。

岡山県倉敷市の一部が亀山藩であったり、飛地の支配的な領土を持つ藩も存在していました。

亀山藩、宮津藩、会津藩、薩摩藩、長州藩、土佐藩など、様々な藩が各地に存在していました。

江戸時代の重要な制度には、徳川将軍家の公式史書である「徳川実紀」があります。

初代将軍徳川家康から10代将軍徳川家治までの将軍ごとに編を分けて、年月を追って事績が記載されています

11代将軍徳川家斉から徳川慶喜までの公式史書「続徳川実紀」は、編集作業が明治時代にまでずれ込み、稿本のまま未完成で終わりました。

江戸時代は、独自の文化や制度を確立し、長い平和と繁栄をもたらした重要な時代であり、現代の日本社会に大きな影響を与えています。

江戸時代初期、政治の中心は江戸に移り、京都は天皇と公家しか残らない状態になりました。

しかし、角倉了以による大規模なインフラ整備によって、京都は文化・商業都市として再び発展しました。

彼は桂川に渡月橋を架け、多くの商人や観光客を引き寄せ、幕末維新の舞台を築く礎を築いたのです。

戦乱で荒廃した京都は、かつての広大な都から、上京と下京の小さな市街地が残るのみでした。

人口も減少し、経済的な魅力も失われていました。

しかし、角倉了以の開発事業によって、京都は再び活気を取り戻し、文化と商業の中心地としての地位を確立しました。

角倉了以は、経済力と社会貢献意識を兼ね備えた優れた人物でした。

江戸時代の京都は、政治の中心から文化の中心へと変化し、様々な文化遺産を残しました。

🚩 結論!

💡 江戸時代の京都は、政治の中心から文化の中心へと変化しました。

💡 二条城と御所は、江戸時代の京都における政治と文化の象徴的な場所です。

💡 交通網の発展と商人たちの台頭によって、京都の経済と文化は大きく発展しました。