北白川宮成久王とは?悲劇の皇族、自動車事故、北白川宮家の歴史を紐解く(?)フランスでの事故死、皇族の悲劇
北白川宮成久王。陸軍士官学校を卒業し順調なキャリアを歩むも、フランス留学中に自動車事故で急逝。 明治天皇の皇女との結婚、大勲位菊花大綬章受章など華々しい経歴の一方、父・能久親王、そして自身と、3代続けて悲劇に見舞われた北白川宮家。 事故現場に残るプライベートフィルムは、激動の時代を生きた皇族の姿を今に伝える。 「悲劇の宮家」と呼ばれたその運命とは。
💡 北白川宮成久王は、陸軍士官学校を卒業し、陸軍砲兵大佐まで昇進した経歴を持つ。
💡 明治天皇の皇女・房子内親王と結婚し、大勲位菊花大綬章を受章するなど、華々しい人生を送った。
💡 フランス留学中に自動車事故で急逝。その死は、日本社会に大きな衝撃を与えた。
北白川宮成久王の生い立ちから、その華麗な人生、そして悲劇の最期まで、詳しく見ていきましょう。
悲劇の宮家、北白川宮成久王の誕生と華麗なる人生
北白川宮成久王はどんな人生を送ったの?
軍人、皇族議員、フランス留学
北白川宮成久王の誕生から、その幼少期、軍人としての活躍、そして結婚に至るまでの華麗なる人生を振り返ります。

✅ 北白川宮成久王は、北白川宮能久親王の第3王子として生まれ、父の薨去により北白川宮家を相続しました。
✅ 成久王は、フランスに留学中に自動車運転を覚え、運転技術向上のため東久邇宮稔彦王や朝香宮鳩彦王らとドライブに出かけましたが、1923年4月1日、ドライブ中に事故を起こし、成久王自身とフランス人運転手が死亡、同乗していた房子妃と鳩彦王は重傷を負いました。
✅ 事故は、成久王がスピードを出し過ぎて車を道路から逸脱させ、アカシアの大木に衝突したことが原因とされています。
さらに読む ⇒ページ!出典/画像元: https://minnashinda.jimdofree.com/%E6%AD%BB%E3%81%AB%E6%A7%98/%E4%BA%8B%E6%95%85%E6%AD%BB-%E2%91%A4/%E5%8C%97%E7%99%BD%E5%B7%9D%E5%AE%AE%E6%88%90%E4%B9%85%E7%8E%8B/成久王は、陸軍軍人として着実に昇進を重ね、皇族としての務めも果たしながら、その人生を謳歌していました。
しかし、その後の悲劇を思うと、非常に感慨深いですね。
北白川宮成久王は、1887年4月18日に北白川宮能久親王と正妃富子の唯一の子として生まれました。
8歳で父宮の薨去により北白川宮を継承し、陸軍士官学校、陸軍大学校を卒業、陸軍砲兵大佐まで昇進しました。
明治40年に成年を迎え、貴族院皇族議員となりました。
明治42年には明治天皇の第7皇女・周宮房子内親王と結婚しました。
大正6年には大勲位菊花大綬章を受章し、同年秋には夫妻で台湾を訪問しました。
大正10年から軍事・社交の勉強のためフランスに留学し、自動車免許を取得し、自家用車も購入しました。
家族ぐるみで親交のあった銀行家アルベール・カーンによるプライベートフィルムが残っています。
北白川宮成久王殿下の生涯、非常に興味深いですね。時代の流れの中で、皇族としての役割を果たしつつ、新しい文化にも触れていたことがよく分かります。
悲劇の幕開け - フランスでの自動車事故
成久王はどのように亡くなったか?
自動車事故
成久王が体験した自動車事故の詳細について触れていきます。
事故の状況、事故原因、そしてその後の影響について解説します。

✅ 北白川宮成久王は、北白川宮能久親王と富子の唯一の子として生まれ、父宮の薨去により8歳で北白川宮を継承しました。陸軍士官学校、陸軍大学校を卒業し、陸軍砲兵大佐まで昇進しました。1909年に明治天皇の第7皇女・周宮房子内親王と結婚し、1917年に大勲位菊花大綬章を受章しました。
✅ 1921年から軍事・社交の勉強のためフランスに留学し、翌年には自動車免許を取得しました。機械好きなことから自家用車を購入し、社交界でも評判が高かった夫妻は、銀行家アルベール・カーンとも家族ぐるみの親交があり、カーンのプライベートフィルムが残されています。
✅ 1923年4月1日、成久王は留学中の東久邇宮稔彦王をドライブに誘い、ノルマンディー海岸の避暑地ドーヴィルまで泊りがけでドライブに出かけました。しかし、成久王の運転が危なっかしかったため、稔彦王はこれを断り、成久王は代わりに朝香宮鳩彦王を誘い、房子内親王、御用掛エリザベート・ソビー、運転手ヴィクトール・デリアと共にドライブに出発しました。パリ西方約140kmの地点で、スピードの出し過ぎによりスリップし、路傍のアカシアの巨木に衝突し、成久王は事故から20分後に死亡しました。
さらに読む ⇒出典/画像元: https://www.wikiwand.com/ja/articles/%E5%8C%97%E7%99%BD%E5%B7%9D%E5%AE%AE%E6%88%90%E4%B9%85%E7%8E%8Bスピードの出し過ぎが原因で、20分後に死亡という結末は、非常に衝撃的です。
同乗していた方々の心情を思うと、胸が痛みます。
1923年4月1日、フランス滞在中にスピード超過による自動車事故で亡くなりました。
事故はパリ西方約140kmのペリエ・ラ・カンパーニュ村で発生し、助手席の運転手も死亡、後部座席の房子妃と鳩彦王は重傷を負いました。
亡骸はパリに移送され、日本に帰国後、豊島岡墓地に葬られました。
1935年にはパリ日本人居留団により事故現場に碑が建てられました。
成久王の死は、日本社会に大きな衝撃を与えました。
いやー、成久王さん、運転荒かったんかな?フランスまで行って、まさかのアカシアの木に激突!まるでコントやんけ!でも、めちゃくちゃ悲しい事故やで!
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幕末に誕生した北白川宮家。戊辰戦争、台湾出兵…悲劇に見舞われた皇族の物語。若き当主たちの波乱の生涯と、宮家が辿った運命とは。