北白川宮成久王とは?悲劇の皇族、自動車事故、北白川宮家の歴史を紐解く(?)フランスでの事故死、皇族の悲劇
北白川宮成久王。陸軍士官学校を卒業し順調なキャリアを歩むも、フランス留学中に自動車事故で急逝。 明治天皇の皇女との結婚、大勲位菊花大綬章受章など華々しい経歴の一方、父・能久親王、そして自身と、3代続けて悲劇に見舞われた北白川宮家。 事故現場に残るプライベートフィルムは、激動の時代を生きた皇族の姿を今に伝える。 「悲劇の宮家」と呼ばれたその運命とは。
北白川宮家の歴史と悲劇の伝統
北白川宮家はなぜ「悲劇の宮家」と呼ばれるか?
3代で悲劇的な死
北白川宮家は、代々不運に見舞われる「悲劇の宮家」と呼ばれる所以を、その歴史を通して紐解いていきます。
公開日:2023/07/01

✅ 北白川宮家は、日本皇室の中でも「悲劇の宮家」と呼ばれ、代々不幸に見舞われてきた。初代の智成親王は17歳で早逝し、2代目の能久親王は戊辰戦争で新政府軍と戦い、その後普魯士留学中に結婚を巡って政府と対立。明治28年、臺灣征討の最中に臺南で亡くなった。
✅ 3代目の成久王はフランス留学中に交通事故で亡くなり、4代目の永久王も中国での軍隊演習中に飛行機事故で亡くなった。北白川宮家は、代々異国の地で悲劇的な死を遂げた。
✅ しかし、第二次世界大戦後、皇族の宮家制度が廃止され、北白川宮家は平民となった。道久王はその後、長寿を全うしており、北白川家の悲劇はそこで途絶えた。また、道久王は臺灣との縁も深く、臺灣の文化交流にも貢献している。
さらに読む ⇒出典/画像元: https://www.nippon.com/hk/japan-topics/g00742/北白川宮家の歴史は、まさに波乱万丈ですね。
戊辰戦争、台湾出兵、そして今回の事故と、運命に翻弄された人々の姿が印象的です。
北白川宮家は、幕末の混乱期に伏見宮家の支流として皇族として宮家を立てられた家系で、初代当主は伏見宮邦家親王の第13王子・智成親王でしたが、若くして亡くなり、兄の能久親王が北白川宮家を継承しました。
能久親王は戊辰戦争で彰義隊と共に戦い、その後は新政府軍に降伏し、蟄居の身となりました。
明治3年にはプロイセンに軍事留学し、明治28年には台湾に近衛師団長として出征しましたが、マラリアに罹患し、台南で亡くなりました。
北白川宮家は、3代続けて悲劇的な死を遂げたため、「悲劇の宮家」とも呼ばれています。
北白川宮家って、本当に色々なことがあったんですね。家族を思うと、もっと長生きしてほしかったな、と思います。
北白川宮家の継承と新たな章
北白川宮家は誰によって継承されたのか?
永久王
成久王の死後、北白川宮家がどのように継承され、その後の宮家はどうなっていくのかを見ていきます。

✅ 北白川宮能久親王は、1867年に輪王寺門跡となり、日光・輪王寺の門主、寛永寺貫主、天台宗の座主を兼任しました。
✅ 明治維新後、彰義隊に擁立され、東北に逃避し、奥羽越列藩同盟の盟主に擁立されたものの、その後処分を解かれ、伏見宮家に復帰しました。
✅ 1876年にドイツ人との婚約が発表されたものの、政府により破棄され、1895年に台湾征討近衛師団長として台湾へ出征中にマラリアにかかり、亡くなりました。
さらに読む ⇒桑原政則の「合縁奇縁」出典/画像元: https://kuwabara03.blogspot.com/2011/10/1847189548.html永久王も若くして亡くなったことは、大変残念ですね。
皇室の宮家制度の廃止後とはいえ、その道のりは平坦ではなかったでしょう。
成久王の死後、北白川宮家を継承したのは、その第1王子・永久王でした。
しかし、永久王も40歳という若さで亡くなり、北白川宮家は皇室の宮家制度廃止後も、新たな道を歩んでいます。
成久王殿下のご逝去後、北白川宮家は様々な困難に直面したことでしょう。しかし、その歴史は、現代にも大きな影響を与えていると思います。
今回の記事では、北白川宮成久王の生涯を、華麗な人生と悲劇的な最期を通して振り返りました。
歴史の奥深さを改めて感じます。
💡 北白川宮成久王は、陸軍士官学校を卒業し、皇族としての務めを全うした人物であった。
💡 フランス留学中に自動車事故で急逝。その死は、日本社会に大きな衝撃を与えた。
💡 北白川宮家は、「悲劇の宮家」と呼ばれ、その歴史は現代にも語り継がれている。